『白道』はSF短編小説の体をなす、ある種の「ネット上のおもしろ文章」を目指して書かれた。
書いた時期と同時期に開催されていた「あたらよ文学賞」に応募し、一次までは通過したことで「"おもしろ"文章」の要素が多少担保された気がする。
そしてその内容は、参照とジョークと示唆が主軸であり、それから「ネット上でない現実空間での私」の周囲の人々が読むと別の出来事との類似が分かる話になっている。
既に『白道』を読んでくれた人なら多少興味があるだろうと仮定して、それらを抜粋して解説する。
1. 白道と拍動 寝室と心室
「白道」は「拍動」とのダブルミーニングになっている。もう1つ作中で同様のネタが「寝室」と「心室」である。
後者から先に説明しよう。
音楽の世界で「ベッドルームミュージック」や「ベッドルームミュージシャン」という語があり、文字通りこれは寝室に由来する。
これはクラブやライブ会場などを中心とするのではなく、自分の寝室で生み出されるような音楽やそのような音楽家のことで、例えばFORCETLQの音楽などはまさにこれである。
作中で主人公がドビュッシーの音楽を聴き、また子供時代にラジオの音楽番組を聴いていた場所は寝室であった。
白道は月の通り道を表す。作中では月は電彁の象徴である。拍動は心臓の鼓動や音楽のビートを意味する。
「寝室/心室に白道/拍動が始まること」、これがこの文章の根本的な種であり、そしてもちろんタイトルの由来である。
掛詞で作品が陳腐化するという厳しい意見の方へ、あくまでこれは「おもしろネット文章」であったことをリマインドしよう。以下にもっとネタがあるので紹介する。
2. 月
月は電彁の象徴になっている。ユミの名前の由来は「弓」や「ツクヨミ」であり、電彁の「彁」の字(ところでこれは有名な幽霊文字)にも弓が入っている。
「月江りさ」は「Estquilia」のアナグラム(Estquilia → tuqiE lisa)
それから、後述のケプラーの話が月を強く象徴たらしめている。
エジプト神話でトートは月としての属性を持つ。ちなみにギリシャ語表記が顔みたい(Θωθ)
3. 芸術創造と人間性とケプラー
ほとんどの場面で生物的なヒトは「ヒト」、電彁と合わせた呼称は「人間」の表記になっており、最後の場面だけ「人」になっている。
あたらよ文学賞の一次の講評でいただいた「既存の情報の集積からAIがつくりだした芸術はたして創造性をもちえるのか」という問題は現在よく考えられている問題であるが、『白道』の中で電彁はもはや現在のAIのイメージとはかけ離れ、より人間的な存在になっている。
要点は、電彁について、「電彁がレファレンスと体験から生み出したものに創造性の存在を問う」行為はそっくりそのままヒトについても言えるということだ。
つまり私が考えたのは「(現在の)AIの芸術には創造性があるか」あるいはAIを主題や主語とした疑問ではなくて、そもそもそれらの議論をするのであれば同様のことがヒトにも言えるということだ。
なぜある人はヒトに創造性があることを疑いもしないのに、それを脳を除きほとんど生体で脳もまたヒトと同様の処理をする回路を持つ電彁にあてはめたら途端に創造性の存在を考え始めるのか?
創造性は人間性の一つの形として作中で例示されているのみで、同様の議論は人のあらゆる行動についても言うことが出来る。人間的な行動とは何か?
ちなみに私は当然、作中で導入された電彁という存在には創造性のみならず人間性があり「人」であると思う。
つまりAIとヒトという単純な対比・比較構造ではないのである。その点で、『白道』の世界で「AI」という語/見方は差別用語の側面さえありそうなほど前時代的だ。
そして、この視点はヨハネス・ケプラーが1608年に書いた小説『夢(Somnium)』にも関連している。
(参考)『夢』をToby Hendyという海外のサイエンスコミュニケーターが紹介している動画
https://youtu.be/IllgR6kOieI?si=5-GnxPAxS5KXyo2h
時代背景として、『夢』の前にケプラーは『宇宙の神秘』の中でコペルニクスの地動説に賛同する主張を書いている。そして『夢』の中でケプラーは地球が月からどのように見えるかを描いている。月の住人は地球が月を中心に公転していると思っているが、当時、月は地球を中心に公転していると広く認識されていた。(※実際には地球と月は地球表面から少しだけ内側にある点を中心に回っている)
ケプラーは人々の天動説の認識が、月の住人の「地球は月を中心に公転する」という考えと同様に誤っているのではないかと示唆した。
私たちがこの作中の「電彁」について何かを考えたとして、それはヒトについても言えることなのではないか?
そうしたこともあり『白道』に出てくる企業名のLevaniaというのはこの『夢』の中での「月の世界」の呼称から取っている。
4. なぜ描かれている世界の文化が時期に比べて比較的古いか?
この話は人工知能が生まれてから1000年後であるが、描かれている世界の文化が比較的現代から遠くない。
簡潔にいえばこれは「今年(そしてこれまで)自分に起こったことをそのままSF風に書いた文章であるから」というのが答えではある。
実際には、例えばそもそも1000年後も企業が現在の要素を多少でも残しているとは極めて考えにくいと私個人は思っている。それは人間の開発行動や価値伝播の文脈で現在も既に議論されていることだ。
「実話の、音楽でいうRemixだから」と言ってしまえばそれで終わりになってしまうのだが、1つ私がこの時代的違和感について興味深いと感じる感情を代表しているのが杓文字(しゃもじ)である。
これは杓文字がしばしば象徴的に扱われる神道などの文脈とは一切関係ない。杓文字は非常に古くからあり、現在の「杓文字」の語も女房言葉が由来である。そして杓文字はそれらの事実を知っていた幼少期の私が想像を膨らませる対象でもあった。
「いかに、技術の発展した現代において、電子炊飯器から米を掬うのが大昔からあるものとほとんど変わらない杓文字などというものなのか」
考えてみると面白かった。それからそれを美しいと思った。
対照的に道路の信号機は作中で「もう無いもの」として描かれる。自動車が大衆に利用されるようになってから、自動運転技術が標準になるまでの人類史で僅かな期間にだけ存在している光。
これもまた別の美しさを持っていると思った。
私は現在を懐古的に見ることがある。例えば他にもクレジットカードと物理的な金属貨幣が両方収納できる現在の「財布」も奇妙で面白い物だと感じる。
作中にSFらしき設定は現在の自明な延長と、上述の議論に必要な電彁を除いてほとんど無いのだ。
5. 私小説
最後に、この話は私小説でもある。登場人物は少ないが、みな色んな人間の断片で出来ている。未来的Remixという眼鏡を取り去ると、ほとんど実話である。
私が感謝する人物の名のアナグラムや、実際にあった出来事などが多数含まれている。この広く公開された場でそちらの方面を深く掘り下げることはしないが。
一部の人はEstquilia/月江りさの別のアイデンティティに気が付くかもしれない(その場合、それは心の内に留めておいてほしい。それが正しくなかったとして、憶測でパブリックに発言をすると無関係の誰かに迷惑をかけてしまうかもしれないというのもある)。
終わりに
始めに書いた通り、これは「2023年までのEstquiliaの体験を書いた日記」のようなものだ。
「なんかおもしろいな」と思ったので公開した。作曲と同様、書いた私と公開した私は別人だ。公開する私は、その私がおもしろいと思った文章を広く共有するだけだ。
そして共有した私と同様に読者がこれを「おもしろい」と感じてくれたのなら、あるいはこれが何かの思考のきっかけになったのならすべての私が嬉しいと思える。
それから、ケプラーの『夢』は面白いのでぜひ読んでほしい。
最後に、自己満足的に投げてしまったこの文章に講評まで丁寧に書いていただいた「文芸ムックあたらよ」に感謝申し上げる。
Estquilia個人について、支援したい人はBuy Me A Coffeで支援してくれるとありがたい。 (最近は3B1BJPに続いて新たなプロジェクトを進めようとしていることもあり各所でのリソース不足は否めないというのは個人的な話だが。)
またどこかで(体験的交錯という意味で)お会いしましょう。