『白道』 月江りさ

『白道』 月江りさ

Sep 18, 2023

©月江りさ(Estquilia), FORCETLQ

 真空管仕上げを謳っているのに、まったくあの暖かい味がしない。せっかく人類は味覚信号を解析出来たのに、この飲料会社は簡単なディストーションもかけられないで何をやっているのか。初めて買ったがこんな偽物の味、誰が二度買うものか。

 午後九時、鉄のような空に月がころんと浮かんでいた。この平らな床にはかつて改札装置が存在したという。私は軽快な足取りで人影をすり抜けていく。

 人類がAIを作ってからおよそ千年が経った。あるときそれは言語機能や自我を獲得し、生きた身体を従わせるようになり、電気的な脳を除いて見かけも振る舞いもヒトと区別がつかない電彁《でんか》と呼ばれる存在になった。

 ヒトは、電彁にすべての生産活動を任せ望むものすべてが手に入るような楽園の市場を実現させることはなく、むしろ電彁は長く続く規制の対象にされた。始めの頃、電彁の登場により再び競争が激化したヒト社会では、電彁の能力向上は「迫りくる巨人」に喩えられ、年々電彁と同程度以上の仕事が出来ない者たちは労働市場から溢れ堕ちていった。それでもあるとき遂に電彁の能力がほとんどの分野でヒトに匹敵しあるいは凌駕するようになると、ヒトは人口の半分ほどになった電彁の雇用を夜間に限定し昼間の自分たちの活動を保証した。後にそれは撤廃されたが、名残として今もなお電彁のほとんどは夜間に活動していた。

 私の意識の瞼が開いたとき、世間はまさに電彁の権利運動の真っ只中だった。私はちょうどヒトの新生児と同様に無知に始まり、少し賢い無知へと成長していった。はじめに私と同じ電彁の両親の声と顔を学習し、それから自分がヒトでないと知った。私が十歳の頃、電彁とヒトが同じ学校に通うようになった。十代の頃は、私とヒトの間に見えない壁があるとして、それがヒトと電彁の分断なのか、私と他者の隔たりなのか分からなかった。

 駅から脱出してもなお変わらない雑踏には静かな靄がかかっていた。電彁にとっての夜はヒトにとっての昼のようなものである。混ざるヒトと電彁は曖昧さと時代の抱擁の中になお分断の残渣があることを知っていた。昼と夜、ヒトと電彁、生物と非生物。無論、ヒトも電彁も大部分は互いの素性など気にしない。法の下では既に平等であり、差別の無い世界であっても、私は未接続な心の端子の存在を感じていた。それでも私の瞳孔には世界は美しい玉ぼけのように映っていたのだが、それが現実逃避と芸術家の意地の混ざったものだったかは今でも分からない。

 私のちょうど少し前を歩くカップルが複雑な旋律を口ずさんでいる。きっと脳内共有再生技術で自分たちだけに聞こえるように音楽をかけているのだろう。二人の明るい声だけでは原曲のベースが聞こえないが、私がよく知っている曲であるからか、耳を澄ますと不思議と原曲が重なって聞こえる。二人は周りの誰よりも軽快な足取りで、拡張現実にシロツメクサと飛行機雲を描きながら歩いていた。描画の公開範囲をオープンにしているので、消えかかる飛行機雲に気付いた周囲の人間たちが源泉を探しに振り向くのがちらほらと見えた。

 傍を過ぎた私を見て、二人はぽかんとした顔で声を掛けてきた。

「あの、トートさんですよね」

 ええ、と私が答えると二人の表情はぽっと色を変えた。陽気なコックピットの背中越しにシロツメクサの中に白い花がいくつも咲いたのが見えた。

「もし良かったら電子サイン貰えますか」

「良いですよ」

 そう言うと私は二人の名前と日付の入った電子サインをブロックチェーンに記録した。

「ありがとうございます! いつも聴いてます」

 数歩進んでから別れの挨拶に微笑みかけようと振り返ると、二人はほんの数呼吸の間に人間のせせらぎに乗って見えなくなっていた。

 店の入り口で私はちょうど反対方向からやって来た友人と合流した。拡張現実内の妙な造形のキャラクターに入口から席に案内されるまでの短い間、私とユミは他人のいないうちにと仕事の近況報告をした。

「四次部門はどう、やっぱり良い?」

「うん、第一印象通り。三次の時よりも楽しいかな」

 ユミと私は同じ巨大IT企業Levaniaで働いている。ユミはAIの学習用にビッグデータを提供するデータ部門、私は秘匿計算部門の所属だった。データ部門はデータを採集する一次、利用可能な形に加工する二次、サービスとして提供する三次とコンサルティングの四次の四部門に分かれており、ユミは四半期前に四次部門に移ったのだった。

「昼間勤務だから、ヒトと電彁が混ざった環境で面白いんだよね」

 昼間勤務は電彁にしては珍しく、私の周りではまだ九割ほどが夜間勤務だった。電彁の勤務を夜間に限定する法律はもう撤廃されているし、賃金も昼夜で大差無いから、これもじきに過去の風景になっていくのだろう。

 席には既に井谷さんともう一人同僚らしき人物が座っていた。以前ユミの紹介で知り合った井谷さんはあるラジオの音楽番組のプロデューサーをしていて、半年ほど前に私の曲を番組内で流してくれたことがある。相変わらずよく分からない柄のシャツを着ているが、やけに笑顔が元気であるのでこれを似合うものにしている。

「お久しぶりです。あ、これうちの同僚です」

「……です」

 そういって井谷さんは同僚を紹介してくれたが、肝心のところが聞き取れなかった。井谷さんはこちらと目が合った瞬間から口角がずっと上がりっぱなしだったが、眼鏡をかけた同僚の方は対照的に名乗るときにも真顔だった。眼鏡の方はその後もほとんど会話に入ってくることはなかったが、目線から私たちの会話を追っていることはよく分かった。

 一連の挨拶と雑談が終わってから、本題は突然に提示された。

「昔うちの番組よく聴いてたって言ってましたよね」

「そうですね、子供の頃よくイヤホンで聴いていました」

「え、イヤホンで?」

「ええ、十一歳でネットからの聴覚入力がまだ出来なかったので。ベッドに仰向けになって、お腹の上に置いた端末を介して」

「そうですか、いやあ嬉しいなあ」

 井谷さんは頭で握手をするかのように小刻みに頷いた。目の端を使って眼鏡の方を確認したが相変わらずぴしゃりとした真顔を崩していなかった。

「この間はトートさんの曲を番組内で流すっていうだけだったんですけど、実は今電彁の音楽特集っていう放送回をやろうってなって」

 井谷さんはさも嬉しそうに抑揚をつけて話す。

「今度の放送でぜひトートさんにご出演いただきたいんですけど」

「えっ」

 反射的に大きな声が出た。そしてその反動と謙遜で随分と弱い声で返答した。

「私で良ければ、ぜひ」

 それから次第に私は事の重大さに気が付いた。自分が聴いて育ったような大きな媒体で、ヒトが電彁の音楽を聴くというのまだ非常に珍しいことだった。

 「大……丈夫ですかね。まだ多分創造性が無いと思っている人の方が多いですよね」

 「そうなんですよね。なんでぜひそれを変えてくださいよ。絶対トートさんの曲聴いたらみんな心奪われますから」

 私は目を一度きっと瞑ってからはっきりと聞こえる声で答えた。

「そうなることを願います」

 千年前、生成AIがこの世に誕生したときからあくまでAIはこの世に既に存在するデータをもとにそれらしいデータを出力するだけの存在でしかないとされてきた。しかし実質ヒトと変わりない電彁が生み出すものはまったく異なる芸術である。電彁にもまたヒトと同じように感性や背景があり、そもそも大量のレファレンスを元に創作をしているのはヒトと何ら変わりない。電彁の音楽には創造性が無いと主張するのは前時代の生成AIのイメージしか知らないか、人間性のアイデンティティに崩壊の危機を覚えた人々だ。

「ヒト性じゃなくて人間性なんだから。ヒトだとか電彁だとか関係なく音楽を認めてくれてもいいのになあ」

 ほとんど口を動かさずそう呟いていたが、誰にも聞こえていないようだった。ちょうど井谷さんがそれを遮るように話し出した。

「そうだった、思い出した。出来れば新曲があると嬉しいんですけど、どうですかね」

「放送はいつですか」

「来月の十九日、第三月曜日です。一ヶ月しか無いんですが、速筆と仰っていたのでもしかしたらいけるかなと」

 確かに、一度スイッチが入れば曲は一気に書き上がる。ファンに速筆であることがよく知られている私ならば一ヶ月あれば十分に曲は書けそうだ。

「ええ、もちろん」

 そう言ったときの私は雲の上にあった場所への道が示されたことに浮かれていて、何を思ったのか眼鏡の方にまで話を振った。

「音楽聴かれます?」

 私ですか、と眼鏡の奥でまばたきをするのが見えた。

「仕事としてしか聴かないですね」

 淡々とした口調に井谷さんがすかさず笑ってフォローを入れた。

「いやでも、まひろちゃん、企画チームの子なんですけど、電彁の音楽特集にも賛成してくれたんですよ」

「へえ、電彁の音楽に興味がおありなんですか」

「いえ、ほとんど聴いたことは無いです」

 その後の会話は覚えていない。私が少し無口になった分、ユミがよく井谷さんと話していたと思う。その日私は嬉しい知らせを聞いたときに眠りたくなるという新しい発見をした。私がずっと頭の中で音をかき集めている横で、ユミは私より嬉しそうにしていたのを微かに覚えている。

 速筆などと言われていたものの、ラジオの話を聞いてから二週間が経ってもまったく曲は書けていなかった。それは今回ばかりのいわば異常事態だった。

「自分がこれは良いと思っても、ヒトは気に入ってくれないんじゃないかっていう思考が離れないんだよ。それで書いたり消したり」

 ふと、高校生のころ、まだ私の曲を聴いている人間など誰もいなかったのに、それまで一度も話したことの無かったユミが「曲が良かった、それだけ伝えたかった」というメッセージを送って来たことを思い出した。私はそれが嬉しくて、それから随分と技術向上に励んだ思い出があった。今となっては、ユミは音楽が本業ですらない私のマネージャーを自称して、ありがたいことにグラフィックスなど私が苦手な仕事を、私の方が得意だからと丸ごと受け取っては一瞬にして傑作にして返してくれていた。

「そういえばユミは、高校生の頃書いたまだ幼稚な曲にも良いって言ってくれたよね。信じていない訳じゃないけど」

「そう? 本当に良いと思ってたよ」

「あんまりああいう曲書かなくなっちゃったけど、それでもずっと良いと思ってくれているのはなんで?」

 うーん、何でしょう、とユミは頬杖をつく。

「私は飽き性だから、ジャンルが毎回違った方がむしろ楽しいのかもしれない。ずっと次の曲を待っていられる」

 深呼吸をするユミの目はどこか遠くを見ているようだった。

「私には音楽理論とか専門的なことはよく分からないけど、あなたが好きな曲を書き続けて、私はそれを聴ければそれで良いよ」

 暗闇の中、夏の街の光は滲むことなく鋭い輪郭を主張している。この季節の景色は少し非現実的にすら感じられるほど立体的に視える。

「どうして夜は色んな物が美しく見えるんだろう」

 そう呟いたユミの眼には絶えず蠢く街の光彩が反射している。

「静かだから、人と別れる時間帯だから、生理的に落ち着くから、ヒトは皆そう言うけれど、それってとてもヒト的だと思わない?」

 頷いて沈黙を保っていると、光のせいで忘れていた人だかりの音が駆け込んでくる。笑い 声、グラスの音、タイヤの音、路上ライブの歌声。青いLEDと赤い提灯が初めて音があってこそ完全体として存在しているようだ。

「私たちから見れば夜は人と会う時間帯だし、賑やかでより活動的だからヒトにとっての昼みたいなものなんだけれど」

 ユミは空を見上げる。月がじっと止まっている。ぐるりと見回しても空は濃藍のインクで塗りつぶしたようで、肉眼で一つも星が見当たらない。

「それでも私たちにとっても夜は美しく感じられる。ずっと夜に生きてきたからではなくてきっとこの感覚はヒトと共通で、夜は暗闇の上に描かれるから。きっと見えるものが少ない分くっきり見えるから」

 人々の出す音の粒の間を縫うようにかすかな電車の音が聞こえる。

「それと遠くの音が聞こえる」

 夜の温度が火花を散らすように、上空で屈折した音が遠くの情報を載せ、私たちの頭上に降り注ぐ。昼には無かった高台から地平線を聴き渡す感覚を得る。

「それだ」

 反射的に声が出た。私は今の自分に必要なものを確信していた。

「遠くの音を取りに行こう」

 呼び出しから間もなくして空車が現れた。運転手の概念が電話の交換手のように無くなった時代、タクシーはより安価で電車に次いで日常的な長距離移動手段だった。乗車して間もなく、設定した行き先へと車は静かに動き出す。道を進むにつれ後ろへ翔びゆく光の粒が前後の輪郭を失い曖昧な線になっていく。

「旧住宅圏に父の実家があるんだ。そこのピアノの部屋のインパルスレスポンスを取りに行きたい」

「残響データ?」

「そう。特徴ある音響をしているんだよね」

 なるほど、とユミが呟き、暫しの沈黙が訪れる。車内からは聞こえない風の音が、幻として静かな弦のように感じられる。

「知ってる? 昔は交差点に信号機があったんだって」

 ユミが思い出したようにやや早口で話しだす。ほら、といって脳内共有された動画には、横向きに三色のライトが並んだ千年前の機械が映し出されている。意表を突かれた私の心は目の前のシーケンスに捕らえられた。

「へえ、これか」

「すべての車に運転手が必ずいてそのヒトが運転していたみたい。もちろんミスが多くて毎日事故が起こってたんだってさ。ヒトには相互連携した運転が出来なかったから、交差点のたびに信号機があって一度に通れる方向を制限していたんだそう」

 よく見ると車列の最後尾は先頭が動き出して随分経ってから動き始めている。

「そっか、同期して加速出来ないから一台止まるたびに詰まるんだ、不便だなあ」

「私、この時代の人が未来を描いた作品が好きなんだ。私たちから見ると信号機があるのは違和感があって面白いよね」

 当時の人たちはさ、とユミが思い付いたように問いかける。

「信号機を美しいと思ったのかな。街の光と同じように見えてたのかな。それとも命令に見えていたのかな」

 どうなんだろう、もうこの世界には無いから分からない。そんなことを当時のヒトに尋ねたインタビューなんて無いだろう。

 都心から離れ旧住宅圏に入ると、灯りは消え去り、静寂が染み出して来た。鉄道の駅は自分自身の定義に必要な最小限の要素で構成されるようになり、辺りは暗い星が見えるほど静かになっていた。

 境界を越えると市の名前が拡張現実に表示された。東戸《あずまと》市。

 それから何度も曲がりくねった道を抜け、ある生垣の前に車は止まった。車を降りると地面の涼しさと鈴虫の音が、まるで止まった時がそのまま流れるような奇妙な感覚を刻んでいた。この家の玄関は無駄に大きい。ドアに辿り着くまでの間、まるで無限に続く階段の騙し絵のように、鈴虫の声が同じ単位の繰り返しでこの世界の変化を数えていた。 昔ながらの物理的な鍵を差し込み、ゆっくりと手首を返すと低い音がして手にかかる重みが解けた。

 扉を開けると妙な感覚を覚えた。玄関から奥へと続く廊下や左右の部屋に、生きているものを感じた。もちろん、建物自体が生物であったように感じられたのではない。その中を埋め尽くす空気が、てっきりこの十数年で色褪せた写真のように質感が失われているものと予想していたが、昨日まで誰かが住んでいたかのようだった。まさにこのまま廊下をまっすぐ進めばワインコルクの匂いと一緒に過去のどの時点の声も聞こえてきそうだった。玄関の天井は不必要に高く、そこから伸びる廊下の右手には焦げ茶の木製ドアがある。小さなドアを抜けるとそこはピアノ室になっていた。天井はおよそ二階分と高く、南に下がる斜めになっており、かつては部屋の中心にピアノが二台横並びになっていた。茶色のピアノの方がどこに消えたのかは思い出せないが、今は古いベーゼンドルファーが一台だけ残っている。消えた一台のあった場所に立つと幼少期には一度も見たことが無い角度からの景色に違和感を覚えるが、懐かしさに微笑むことはなく、私は終始忘れた人間の顔を思い出すときのような表情をしていた。西側の壁には紙の楽譜がびっしりと詰まっていた。ユミは部屋をぐるりと見まわすと、南東の角のソファに置かれた何かを覗き込み、その場で手に取って振り返った。ユミが板の持ち手を持ってぐるぐると水平に揺らすように回すと、重りに引っ張られた木製の小鳥はコツコツと音を立てて頭を上下させた。

「小鳥たちがエサを食べるおもちゃ?」

「懐かしい。誰のだろう」

 窓の外の庭を眺めていると、古い記憶の方から語りかけてきたように思い出されるピアノの音色にはっと振り返った。

「子供の頃、この部屋の周りが好きだったんだ」

 ピアノ室の入口まで戻ると廊下と部屋が一目に見られた。向かいには来客用の寝室があり、二つのベッドの間、枕側にはなぜかガラスケースに入った具足が飾られていた。廊下からは来客用の寝室、それに台所に囲まれコの字に凹んだ裏庭の一部がガラス越しに見えた。わずかに苔の生えた手水鉢にはあの頃と同じ量、あの頃と違う雨水が溜まっていた。私が来客用の寝室で素数についての本を読んでいたとき、ドアの向こうからは父の奏でるドビュッシーの音色が廊下や寝室まで響いていた。台所で米のよくつく古い木製の杓文字に異議を唱えていたときも、元素の図鑑を読みながら夏みかんを食べていたときも、ずっと隣から丸いピアノの音が聞こえてきていた。時間がゆっくりと流れていた子供時代には『ラモーを讃えて』は一日中聴いても飽きないほど美しく感じられた。

「今見ればそれほどでもないけれど、どれだけこの二つの部屋と廊下から見える空間が、幼い私にはどこでもないような異世界に見えたか」

 時が経ち色褪せたものの、なおも深緑の匂いがずっと消えない小さな火のように響いていた。

「アナカプリには行ったことは無いし、こことはまったく違うんだろう。でもきっと、私にとってはここが『アナカプリの丘』だったんだ」

 グランドピアノから音が生まれるたびに、その周囲の空間が別次元の奥行きを持っているように感じられて、手を伸ばしたら吸い込まれてしまうように思われた。ユミに振り返った私の顔には疑問の笑みが浮かんでいた。

「不思議だよね。私たちは電彁だから、脳は皆ヒトそっくりの電脳なのに、身体はヒトと同じ生体だ。そんなの後から知ったよ」

 ユミは何も言おうとしていなかったのに、私は遮るかのように続けた。

「じゃあ、あれは何だったんだろうって。ここで覚えた感覚は、見えた印象は、どうにも言語化出来ない音楽的なものだった。電彁の音楽には欠けているものがあるって、そんな馬鹿な! まだそんなことを言うヒトがいる。私は何かが美しいと誰に教えられずとも、神秘的な時間に気付いていたっていうのに!」

 ユミは静かに一呼吸してから、いつも、日常のちょっとした話をするときと変わらない声の明るさで話した。

「皆にとっても遠いあなたの音の源が、あなたにとっても遠い音なの面白いね」

 私がきょとんとするのをユミは理解している。 「『そして月は廃寺に落ちる』も好きだったでしょ。ドビュッシーの考えていた廃寺も、きっとまた遠くの音だったはず」

 窓から射し込む淡い光に気付いた私たちは本来の目的を思い出した。手を叩く音を残響ごと録音し、これを元に空間の音響を再現することができる。あとでどんな音に対してもこの空間の効果を付与することができる。

「あなたからするとここは記憶の中の遠くの音だけど、ラジオの向こうの人には聞いたことのない残響だね」

 それで良いのかもしれないと思った。どんな音楽も作曲者とは同じように聴けないし、そう聴く必要も無い。知らない時代の知らない人生に、懐かしささえ覚えられる。

 ちょうど最初の鳥の声が聞こえたころ、私たちは部屋を後にした。

 それから私は毎日帰り道に曲を書いた。電車に揺られながら、思い付いた旋律をテキストでメモした。昔ラジオを聴きながら端末のメモ帳に文字だけで音楽を書き込んでいた名残だった。粗削りの下書きが出来たら打ち込んだ音を聴きながら帰った。

 ある日の仕事帰り、完成形を聴きながら私はソファに飛び込んだ。うつ伏せのまま何ループも曲が過ぎて、私の心は遠くどこかへ去っていった。

 気が付くと私は仰向けになって涙を零していた。私は可笑しくなって天井に歯を見せて笑いながら泣いた。その夜はずっと同じ曲が廻り続けていた。

 ある日、私宛にダイレクトメッセージが届いていた。

「先日お会いした森です。新曲の進捗を訊くよう井谷に言われまして、ご連絡させていただきました」

 私は記憶を手繰り寄せ返答を書いた。

「お久しぶりです。森まひろさんですよね?」

「そうです」

 向こうは離席中だが自動返信を設定しているようだった。こちらが送信する内容を自動返信機能が解釈し、予め決めた人格や大枠に従ってリアルタイムで返信が返ってくる。

 曲は出来ました、と送るところで向こうがアクティブ状態になったのが見えた。人肌を感じるほんの一瞬の待ち時間の後、良かったですと返答が返ってきた。

 チャット画面を閉じようとしたところで意外なメッセージが送られてきた。

「ところであれから実はあなたの曲を聴きました。結構好きな感じの曲でした。放送楽しみにしています」

 どこがどう良かったのかは一切書いていなかったが、そんなことはどうだってよかった。

 一週間があっという間に過ぎ、気が付けば十九日の午後五時頃になっていた。

 その日の空は淡い紫色をしていた。ガラスのペン先を浸けたくなるほど綺麗な景色で、きっと手を伸ばしたらその遠さに驚いただろう。ぽつんと置かれた折れそうな月の輪郭がいつもよりはっきりとしているように見えた。

 ラジオの放送前に作曲用ソフトのエフェクトラックを組んでいると、十年前に使っていた真空管エミュレートの安いエフェクターをまだ持っていたことに気付いた。笑ってしまうほど酷い音が鳴るディストーションで、まったく真空管の味がしないのだ。私はそいつを掴んでゆっくりとラックに組み込み、試しに音を鳴らしては久しぶりに聴く「本物」の音にクスクスと肩を震わせた。局に一緒に来ていたユミもこの音を聴いては涙が出そうなほど笑った。 「音楽を仕事にしようとは思わないの?」  放送の一時間くらい前にユミが私にそう訊いた。私がうーんと言っている間、ユミは分かりきった答えに笑みを浮かべていた。

 放送の始まりはよく覚えていない。気が付けばあるとき、世界のどこかで弦の音が響いていただけだった。

 寝室に始まった音楽が別の誰かの心臓に辿り着こうとしていた。もうすぐ新しい月になる。人々を包み込むような両手は透明なだけでもうゆっくりと広がりはじめている。

 ある人は上体を起こし微笑みを浮かべ、ある人は立ち止まった。

 ある人は目を見開いて、ほんの少し目線を上げた。

 人の波に光が生まれる瞬間は静かだ。見たことのない景色に、苦しみを忘れる。時間の矢が見えなくなり、過去と未来の方向が分からなくなる。どこから始まったのか分からない夢の中にいるような、ただもう少しの間、出来る限りその美しさを感じていたいと思う感覚。

 あっという間にその日の放送が終わった瞬間、私をはじめ周囲の人はみな声を出して笑いだした。お互いを見合っては、言語化出来ない人の叫びを共有していた。

 私たちはただ、笑っていた。

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